「プラータナー[Pratthana]」。このタイ語の言葉を日本語に訳すとすれば「欲望」となるだろう。だがこの欲望は、性的な、荒々しい欲望だけでなく、未来を見すえた望みや希望も示す言葉だ。
外の人間からは、穏やかで微笑みに満ちた社会と思われがちなタイだが、それは表面的な身振りにすぎない。その身振りのうしろには、本来はもっと深いところに秘匿されておくべき、暴力的な欲望が顕現している。あまりに簡単に目にできてしまう距離に。多くの血が流れた市街戦の記憶、消えていった命、封じられた言葉の痕跡は、この社会のいたるところに残っている。
この欲望は、タイという国家の身体と強く結びついている。国家を身体と比較し、社会の成員を身体の各器官と比較する有機的国家論は、タイの王族の、数多くの著作に見られる。「髪、毛と人民は同じで、一人死んだところでなにも感じない。しかし多く死ねば、寂しいものになる」(ワチラヤーナワローロット親王)。「国とは身体のようなもの/王は魂[略]/王侯貴族は両手/軍は足[略]/民衆は/数々の武器/その衆が優れていても/魂と身体が離れれば破滅/持ち手のいない武器が/自ら戦いに赴いていいものか」(ラーマ1世)。あるいは歴史学者トンチャイ・ウィニッチャクーンの提唱した地理的身体(ジオボディ)。西欧列強との折衝において国境線を策定したタイは、地図上の領域を国家の身体として想像/創造していった。だが、地図上でつぎはぎされる地理的身体には、身体を支配する意識のなすがままに、とつぜん身体の一部に組み入れられる器官も、とつぜん異物として遮断される器官も存在する。こういった国家の身体論に、輪廻とカルマの思想、温情主義的な「善き人」や「父」を求める思想が融合し、タイ社会における格差・不平等・不公正を正当化している。
本作では2016年という「現在」から「過去」の欲望の遍歴が語られる。タイという身体のさまざまな器官がもつ欲望、そこに生きる個人がそれぞれに抱く欲望。有機的な身体における動的平衡のダイナミクスに逆らうように、瞬間をそのまま留めておきたいと願う、変化を拒絶する、自らを守る欲望。このねばつく、醜悪な欲望は、亡霊となって過去から蘇り、現在と未来のわたしたちに憑依して、支配しようとする。
だがわたしたちは、この亡霊に意味を与え、形象を与えるための言葉を、身振りを、感情を、イメージを手に入れた。それが原作小説の『欲望の輪郭[Silhouette of Desire]』であり、『プラータナー:憑依のポートレート[Pratthana – A Portrait of Possession]』なのだ。そしてその先に待つ、浄化と解放の希望。
わたしたちが目にする浄化は、決して美しいものでも、心穏やかなものでもない。だが、わたしたちは、その欲望、精神、身体を、憑依から解放しなくてはいけない。それこそが、いちどは砕け消えたわたしたちの命にふたたび光を与える唯一の道なのだから。
2018/8/22(水)〜28(日)
@ チュラロンコーン大学文学部演劇学科 ソッサイパントゥムコーモン劇場
福冨渉(原作翻訳)